金沢在住パパ スローライフをめざして

金沢在住、二児の父です。節約や工夫、家庭菜園、釣りなどで生活を楽しくするための記録です。

魯迅『孔乙己』 …不平知識人について

 『孔乙己』と書いてコンイーチーと読む。中学校の時に学校の図書館で読んだ。読んだのは魯迅の短編集だが、同じ本に載っていたであろう『阿Q正伝』よりも、こちらが印象に残った。

 印象に残ったといっても、こまかい内容まで覚えているわけではない。科挙に受からなかった中年の孔乙己が酒場でくだをまくという箇所だけである。

 だが、このような、試験による立身出世に失敗した人間の中年以降の有様というものは、自分にとって切実な話題でもあった。試験の出来によって将来が振り分けられ、名誉や収入が左右されるということは、人生が自分の頭脳や学習量にかかってくるということである。しかし、そこには特に保障がない。自分の頭が、高度な競争に耐えられるほどの優秀さを生まれつき備えているのか、また、それがどの程度の集団にまで通用するのか、そして、自分がそのような目的に向けて、労力を注ぎ続けられるのか、など、不確定である。

 昔のように、農村で土地を引き継いで農業を続けるとか、商売の基盤を引き継いで商売を続けるなど、生活の手段を引き継ぐというわけではなく、遺伝や教育という不確かな方法に次世代の生活水準を左右させるという仕組みは、先が見通しにくい。

 自分の人生は自分のあたまにかかっている、しかし、そのあたまがどこまでのものかという不安に、『孔乙己』で描かれたような知識人くずれの生態は、訴えかけるものがある。

 

 試験による立身出世がうまくいかなかったという例として挙げられるのは、まず科挙である。太平天国を興した洪秀全は、科挙に受かって官僚になることができなかった。それでも相当な才覚があったため、大きな反乱を起こして王になることができた。

 科挙四書五経などの暗記主体の試験だっただろうから、それで測ることができない人間性などの面で優れていたのだろう。ただ、洪秀全も最後は悲惨な死に方をするから、一生を安泰に暮らした科挙官僚と比べると、不幸な人間だと感じる。

 

 また、現代の司法試験も、一生受からない人がいる試験として知られる。法科大学院制度以降の変遷は詳しく追っていないが、やはり試験による人生の一発逆転をねらいつつ、能力が足りないために一生受かることができないという人間の在り方に触れることは、不安を感じさせる。

 

 要は、人生は台無しになってしまい得るものだし、それは、自分の能力の至らなさについての無自覚によって引き起こされる。そして、それは無自覚のみならず、今まで注ぎ込んだ労力を惜しく思うことや、もう引き返せないという退路のなさによっても起こる。

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